昭和47年8月1日 月次祭 (末永信太郎)
7月いっぱい、ここの御信者の方達で、毎日昼の一時から御祈念が、特別の修行期間にそういうおかげを頂いた、と。もう、本当にこのお広前が割れるような勢いで、皆さん、信心の(しんしゅう?)修行が出けました。修行を終わらせて頂いて、まあ、やれやれという気持ちが、まあ、起こるのでございますけれども、まあ、一月間の修行をふり返らせて頂いて、普通では出けないことが出けた喜び、と。
または、とても普通では感じとることの出けない、良いものを感じ取らせて頂いた。そこで、その頂いたおかげを本当におかげ足らしめるために、言うならお互いの信心の本当の意味での血に肉にならせて頂くことのために、しっくりとした信心をさせて頂こう、と。まあ、今朝の御理解です。
どういうところに焦点をおいて信心修行によって得たところの体験、または、分からせて頂いたことを生かして行ったら良いか、と。まあ、これは銘々のことですから、銘々が本当に修行の賜物であったという、なるほど、信心に修行は付き物、修行に力が、または徳が付き物。その力におかげが付き物であるという体験をさせて頂くということが、言うなら、修行の賜物であります。
今日、午後の奉仕をさせて頂いております時に、日田の高芝さんが毎日、日参されます。で、今日は少しいつもより遅く参ってみえました。ほれで私は、お話をしたことでしたけれども、ちょうど、それ前に吉井の熊谷さんが二度目のお参り。いわゆる、今日のお月次祭のお供えを、もう、いつも重いほどに下げて来られる。もう、70いくつのお婆さんにはちょっと無理なくらいの感じである。
しかも、二度目のお参り。お供え物を整えて、バスでこちらへ向かおうと、バスの停留所へ参っておりましたら、ちょうど高芝さんが通りかかれて、まあ、拾うて頂きまして。いわゆる、ここの前まで、境内までおかげを頂いてと、こういうことでございます。ね。
それは、知ったモン同士のことでございますからね、そこで、まあ、停留所にでも待っとんなら、ああ、どこへ行きよんなさるですか、乗せて行きましょうというのは、これは、まあ、誰でも言うことでございましょうし、高芝さんもそんなに、別に感じたわけでもなかったでしょうけれども。熊谷さんにとっては、大変なおかげであったわけです。もう、本当に神様のお働きの間違いないのに有り難い。
今日はとりわけ熱かった。その中に、お供え物を買い整えさせて頂いて、いわば二度目のお参りをさせて頂いておる。バスの停留所からここまで、こう下げてあっち持ちこっち持ちしながら持って来るということも、それは修行であり、おかげであるですけれども、それを神様が、今日はこの門の前まで乗せて来て頂いて、まあ、大変に有り難かったというお礼お届けがあるのを聞かせて頂いてですね、私は高芝さんに申しました。本当に神様の御用に使うて頂くということが、有り難いことだ、と。
自分は知るや知らずじゃ分かりませんけれどもです、そのようにして、神様の御用に使うて頂くということが有り難い。もう、私はそのことをしみじみ感じさせて頂いて、高芝さんにそのことを申させて頂いた。そこから、例えばです、私でお役に立つことならば、私でお役に立つことが出けるならば、その御用をさせて頂きたい、お役に立たせて頂きたいという願いが生まれて来る。
たったこのくらいなことが、そのように神様に、例えば熊谷さだよさんが喜ばれたということが、そのまま神様のお喜びであるようなものであるならばです、もう、自分から捜し求めてでも、そういう御用があったらさして下さい、御用があったらさして下さいという姿勢を作らなければいけない、というようなことがね、信心させて頂いて段々分かって来ると、いよいよ有り難うなって来る。
これも、朝の御祈念に参ってお届けし、それから、また昼お参りをしてみえた、北野の堤清さんのことですけれども。で、今日は参って(おられるけん)、いわば三遍お参りが出けたわけです。熊谷さんも同じこと。しかも、ほんなそこからじゃない、やっぱり何里の道をお参りして来ておるのです。
二度目のお参りを、これもやはり、月次祭だからお供えを持って参ってみえられた。先日から、お父さんが急にこの、足が立たなくなりましてね。まあ、(ちゅうぶ?)のようなになって。ほれで、まあ、病院に入院しておられます。今日、病人の方へ参りましたところが、清、俺は今度はもう、助かりきらんかも知れん。どうも、そんな気がするち。どうか、この辺につかえたものが、こう、何か、とにかく普通とは違う。
だから、もう一遍お助けを頂くように、親先生に改めてお願いをしてくれないかという、父親の願いであった。それが、まあ、二度目のお参りになったのかも分かりませんけれども、そして、そのことを御取次させて頂いてから、御神米にちょうど、それ前に頂いておったことを書き記させて頂いて、このことを良く分かるようにお父さんに言うてあげて下さい。
アンタが分かっとらにゃいけんから、良うとアンタが腹入れして、それをお父さんに言うて下さい。分からんなら、何遍でもまた訪ねてください、と言うて書いてやったのでございます。真実の願いを持っている人は、願いそのものの光に照らされて、願いは自然に成就される、という。素晴らしいことですよ。ね。
本当の願いを持っている人、本当の願いのために信心をしておる人。ね。その願いそのものに光があるのだ。ね。その願いそのものの光に照り返されて、自然におかげが成就して来ると言うのである。素晴らしいです。だから、堤しめきちが、もう一遍助けて下さい、父親を今度もう一遍助けて下さいというだけではいけない、という事なんです。ね。
例えば、総代の御用を頂いておる。そこで、今度また新たな命を頂いたら、今度こそ、ね、総代としての御用が出ける。神様にお喜び頂ける信心をさせて頂きますためにも、その御用のことのためにも、今度は一度、どうでも助けてもらわねばならん、助けて下さいということになる。その願いは、その願いそのものが光を放つのである。意味が分かるでしょうか。
ただ堤しめきちの病気を治して下さいというだけであったら、これは、いわゆる真実の願いということにはならん、本当の願いということにはならんのだ。それはただ、自分の我情、自分の我欲を満たして頂きたいというだけの願いなんです。商売繁盛のおかげを頂きますように、これは自分の我欲を言うならば満たすことのために願っておるようなものである。本当の願いというのは、金光教で言うところの本当の願いというのは、ね、神も助かり氏子も立ち行く。いわゆる、神様も助かり、氏子も助かって行くという、そういう願いに立っての信心でなからなければならない。ね。
そういう、私は、今日はそのことを頂いてから、初めてそれを、これはなるほど、一つ、願いそのものに光がある。その光に照り返された、そのおかげが、ね、自然に成就して来るというおかげでなからなければ、あいよかけよということにもならない、神も助かり氏子も立ち行くということにならない、ということを今日は感じさせて頂いた。そのことを、だから私は堤さんに書いてやって、繰り返し説明をさせて頂いた。
でも分からんなら、もう一遍でも二遍でも訪ねてよく分かって下さい、お父さんも寝ながらそのこと、例えて言うならば、あちらは毎朝、朝の御祈念に参って来ます。けれども、総代会といったような時には全然出て来ん。総代であってから出て来ん。
これで、総代がどういうようなこと、ただ、玉串をあげるだけが総代ではないのだ。大祭やらん時に紋付袴を着けてから、御神前にこう、恭しく玉串を奉ることのために、総代にならせて頂いとるのじゃないのだ。教会で第一番に、言うならば神様の手にもなり足にもならせて頂いて、御用させて頂かなければ助からんほどしの深いめぐりを持っておるから、総代にならせて頂いておるんだ。
信心が出けておるけんで、総代にでんなっとるとか、幹部になっとるなんて思うたら大間違いだ。ね。せっかく神様がお取り立て下さったそういう御用をです、本当に御用として頂けれる。今度こそ、今度新たな命を頂いたら、もうそのことに専念させて頂きますからという願いであるならば、その願いは自ずとと光を放つことになる。その光に照り返されて、自然におかげになって来るというおかげ。ね。
自分は気が付いておるかは(否や?いない?)、それはね、もう、例えて言うなら高芝さんならずとも、ね、今日、例えば吉井の前を通っておる時に、そこに熊谷さんがおんなさるなら、おお、どこへ行きよんなさんの、乗せて行きましょう、と。合楽ですか、んなら、乗せて行きましょうと誰だって言うでしょう。
けれども、本人自身はそれを大変な有り難いこととは思っていないけれども、乗せてもろうた熊谷さだよさんは、もう大変なおかげを頂いて、神様のお働きの間違いなさに驚いてしまいますと言うて、感激しておる。ね。それが熊谷さだよの喜びでなくて、神様の喜びであるとするならばです、それは、高芝さんに返って行かないはずがないわけ。
そこで、私どもが願うてからでも、その御用をさせて頂かなければならん、ということになる訳でしょう。ね。いつでしたか、壮年部会の時に、久留米の石井さんが帰りがけにちょうど久保山さん、善導寺の久保山さんも遅うまでおられましたから、それに、なら、あのバスの停留所前まででも良いからと言うので、乗せてもらった。もう、ここで下して下さいと言うけれども、清さん、いんやあ、送りますと言うてから、まあた、こう町の方へ入ってあそこの家の前まで送ってくれた。
もう、良うございますよ、気のどっか、ここでおりますて。いんえ、これからがよかとこですから、と言うたそうです。ね。これから、善導寺までなら、あちらへ行くモンなら、そりゃ信心のなかモンでん、知らんモンでん乗せて行くです。ね、そうでしょうが。
合楽から善導寺ものバスの停留所前までならば、それこそ、乗せてくれと言やあ、知らん者でも乗せますけれども、久保山さんとしては、もう気の毒いからここで下りたい、ここで下してくれと言うけれども、いんえと言うて送って。いや、それでも気の毒になる。いいえ、そげん遠慮しなさんな、もう、これからが、私のための御用である。これから先がよかとこです、と言うたち。おかげを頂くコツ合いというものを握っておる人の言葉は一言で決まる。分かるでしょう、皆さんも。これからがよかとこですから。
大概なモンがどうでしょうかね。ね。そうですか、なら、もう遅かけん、こっから用心して帰りなさい、ご無礼ますち。乗せてあげたっちゅう。ね。けれども、乗せさせて頂くのである。もう、これからは、貴方が頼んでからじゃない、私が頼んでからでもお宅の前まで送らせてもらわなければ、相済まんというか馬鹿らしかと言うか。ね。これから先は私のため。御用というものは、そんなもんなんですよ。ね。
それを神様が喜んで下さる、久保山さんが喜びなさった。それは、熊谷さだよさんが喜びなさったように、あちらは親切なお方じゃあると言うて喜ぶ。それがそのまま、神様の喜びであるような御用でなからなければいけないということである。昨日も修行が終わってから、恒例のおそばを皆さん頂きました。それが、もうあんまり足りなかったから、二回もまた、しよったもんですから最後の方達遅うなった。
日田の綾部さん達のお連れと、ちょうど文男先生ところの奥さんとが残っとった。で、一緒におそば頂いて、私はバスで帰ったもんと思いよった。したら今朝から、綾部さん参ってみえてから、昨日は先生おかげを頂きまして、文男先生方の奥さんば久留米まで送って差し上げましたち。そおりゃ、あなた、迷惑なもんじゃったですねえ、わざわざ貴方、日田の方に久留米の方ち。
しかもそげん、近いところで下しゃいいのに、そおりゃ、迷惑なもんでしたねと言うてから私申しましたら、それが先生、貴方もうおかげを頂いてからち言うちから、今日はお礼のお届けがあった。奥さん達を送ってから、久留米に岩田屋が出けてから、まだ寄ったこつもなかけんで、ちょっとした買い物もあるから、寄ってみろうじゃないか、というので寄った。
ちょうど、ある、(御進物?)のお中元にあるところへ進物をしなければならん。明日行かなきゃならんから、明日自分が行く前までに届けてもらわなければならない。というので、ちょうど五万円あまりのものを買われて、してそれを、明日の私が行く前に先方に届けてくれと言うて、約束して金を払おうとしよるところへ、連れが方の知り合いのその方が、あらっ、何を買い物ですかと、こう言う。
実はこうこう。そんなら、ちょっと、まあ、待ちなさい。そこの(街商?)をしておられた、岩田屋の。だから、まあ、待ちなさいと言うて、街商の方が交渉してくれましたから、五万円のが三万七千円かで買わせた。はあ、秋永先生方ん奥さんばあそこまで送ってあげたばっかりに、一万何千円儲かった。もう、ちょいとおかげ頂きましたと、こう言う。
これはもう、(目のめきざん?)にそうしておかげが現れますと、誰でん、もう、誰か送ってやる人はなかじゃろうかと、( )を見ろうばってんから、そういう訳には行かんですもんね。そりゃあ、もう送るとがかかっとっちゃよかもん、一万何千円ずつ儲かるなら。ね。けれども、それと同じようなものがですよ、まだ、目に見えないおかげがです、ね、頂けるということを信じれれるということが信心なんです。信心しておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。ね。
だから、その目に見えぬおかげ、と。また、もう、おかげ頂こうと思うてからじゃないけれどもです、これが、たったこれくらいなことが、このくらいな笹屋かな御用がです、神様に喜んで頂くのならば、そういう神様に喜んで頂きたい、信心が分かりたい、そういう信心をさせて頂きたいと願っておるのでありますから、神様がお喜び頂けれる御用ならば、信心なら、させて頂こうという、そういうところにです、少し綿密に、目が粗い。ね。目の詰まった信心をさせて頂く。ね。
そういう、例えば願い。神様が喜んで頂くような願い。それを、真実の願いと、今日、私が言う。ね。真実の願いを立てる。堤しめきちが、この度、また新たな命を頂いたならば、今度こそ本当の総代としての信心を、御用を身に付けさせて頂きます、御用に使うて頂きます。ために、どうぞ、もう一回健康のおかげを頂かせて下さい、という願い。もう、これは絶対のもの、間違いない。
それを、ならここでは、私が和賀心時代を創るというような大きな願いをしておるのでございます。ね。そん為の修行ならば厭わない。ね。和賀心時代を創らせて頂こうということのために、奉賛させてもらう。ね。そういう願いに奮い立たせて頂く信心。私どもの願いというものを、もう一遍改めて検討し直して。ね。形の上においては同じようであっても、その内容が真実の願いということになり、その真実の願いの光に照らされて、ね、神様のお喜び頂けるような信心、願いというのは光がある。
その光に照り返されて、願いは自然に成就されるというおかげをね、頂かなければならん。せっかくさせて頂いた信心修行が、ね、そういうような神様にお喜び頂けることのための信心のために仰視される信心。ね。いよいよ夏の御大祭月に入りました。20日は夏の御大祭。ね。
一つ、御大祭を目指させて頂いて、ね、より有り難い願いを持って、祈願祭に臨ませてもらう。夏の祈願祭というのは、もうそれこそ、年に一度の大祈願と言われておる。ね。桂松平先生が御本部の御造営を成就されることのために、九州中のあらゆる産業、あらゆる農作物が、ね、繁盛し、または豊穣のおかげを頂くようにという、商売大繁盛の祈願をなさったのに始まる祈願祭であります。
だから、そういう祈願のお祭りですから、ただいっちょ、今度の祈願祭にはこれば頼もうというだけの、頼むことは良い。けれど、その頼みが願いが、ね、真実の願いに繋がっておるところの願いをいよいよ本気でさせて頂く御大祭に繋がらせて頂かなければならんと思うのでございます。
そこんところに少し目を詰めての信心修行を、もう一遍、思いふり返らせて頂いて。咀嚼するとでも申しましょうか、ね、もう一遍頂き直させて頂いて、おかげを頂いて行きたいと思う。この三日は、親教会の夏の祈願大祭でございます。いつものように、十時半のお祭りですから、十時ぐらいまでに(このえ?)さんところにお願いを申しまして、あちらで皆勢ぞろいさせて頂いてから、参拝のおかげを頂きたいと思いますから、どうぞ、よろしくお願い致します。三日の十時半からの親教会の御大祭でございます。どうぞ、よろしくお願い致します。